公家の家格の頂点に立った五摂家

桓武天皇のころには三男・宇合の式家が栄え、嵯峨天皇のころ、次男・房前の子孫である北家から冬嗣が出た。南家も中級貴族として残り、明治華族として藪・園・高岳の三子爵家を出してはいるが、主流は北家になった。

冬嗣の子のうち良房が摂関制の祖とされているが、男子がなかったので兄・長良の子である基経が養子になった。その玄孫が道長であり、その子孫から五摂家(近衛・一条・九条・鷹司・二条)が出た(公爵)。これが、摂関家といわれる藤原本流である。

道長の子孫以外でそれに次ぐのは、道長の叔父・公季の子孫で閑院流と言われる系統である。院政期の天皇の母を何人も出し、三条(公爵)や徳大寺(侯爵)、西園寺(侯爵)などがこの系統だ。

一方、良房の弟・良門の子である高藤の娘、宮道列子が醍醐天皇の母となり栄えた(『源氏物語』に登場する明石の君のモデルとされる)。これが勧修寺流で、勧修寺(伯爵)などのほか武士では上杉家などに繋がっていく。多くは紫式部の夫である宣孝と前妻の間の子の子孫だ。井伊家も「良門流」を名乗る。

【図表1】藤原系華族①
筆者作成

※本記事の爵位は1885年の制度発足時のもの

紫式部と宣孝の結婚生活はわずか3年ほど

紫式部の父・為時は、高藤の兄である利基の子孫で、この系統は絶家している。紫式部の母は、基経の弟である清経の子孫である。

【図表2】藤原氏と紫式部系図
出所=『地名と地形から謎解き 紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)

為時は正五位下・越後守、宣孝は正五位下・右衛門権佐山城守で終わっている。いまの政治家にたとえれば、代議士を何期か務めた後に知事に転じて2期ほど務めたとか、霞が関で本省の部長クラスから地方出先の長になってキャリアを終えたといったイメージだ。

紫式部と宣孝の結婚生活はわずか3年ほどだったが、賢子という娘を残した。賢子は道長の甥(次兄・道兼の子である兼隆。「光る君へ」では道兼が紫式部の母を殺したことになっている)と結婚し娘をもうけたが、のちの後冷泉天皇の乳母になってから別れたらしく、高階成章(太宰大弐などを歴任)と再婚した。